歴検日本史修士が語る地名・地形・歴史

歴検日本史修士が地名・地形・歴史について気ままに語ります。 日本史に興味を持ったきっかけはNHK大河ドラマ「葵徳川三代」。 小学生の頃から歴史能力検定を受験し、2013年に歴検日本史修士の称号を賜りました。 大学では中世史を専攻しましたが、現在は学問の世界からは離れています。 地名や地形は歴史を読み解く重要な要素です。 現在住まいを置いている群馬県前橋市を中心に書いていこうと思います。


本書の著者である岡野友彦氏は、中世の江戸徳川家康が入るまで小さな漁村であり、家康がそれを一大都市に発展させたという定説に対し、中世を通じて江戸は東国水上交通の要衝として重要な位置にあったと主張しています。

岡野氏がそのように述べるのは、江戸が太平洋海運利根川・常陸川水系を相互に結び付けていたと考えるからです。

まず、太平洋海運について、岡野氏は中世の品川で活躍した紀伊国・熊野出身の鈴木道胤という人物に注目しています。
岡野氏は、こういった商人たちが伊勢・品川間の海上ルートを日常的に使用していたと推測しています。

また、岡野氏は、伊勢の神宮神官が太平洋海運と水上交通を利用して東国の神宮領荘園に赴いていたとして、南北朝期に北畠親房は東国への水先案内の役割を神宮神官に期待していた、と述べています。

ここでいう水上交通は、銚子から現在の利根川を遡り、関宿付近で現在の江戸川に至り、江戸まで下るもので、岡野氏はこれを中世の河川名称で「利根川・常陸川水系」と呼んでいます。

その上で岡野氏は、江戸は平安時代から太平洋海運と利根川・常陸川水系の「つなぎ目」として重要な位置を占めており、家康が江戸を選んだのは当然の選択であったと主張します。

一方で岡野氏は、家康以前の中世東国政権が江戸を選ばなかったのはなぜか、という点にも言及しています。
それは、中世の関東には、利根川を挟んで東上野・下野・常陸・下総・上総・安房からなるA地域と、上野・武蔵・相模・伊豆からなるB地域との対立が存在しており、江戸はその境界線に位置していたからです。

その対立は、後北条政権が関東全域の支配を実現していく中で、戦国末期には解消されます。
岡野氏は、家康は北条氏に嫁いでいた娘を通して江戸の重要性を知っており、戦国末期には彼が江戸を選ぶ条件が整っていたと述べています。

◎岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』(教育出版、1999年)。
https://www.kyoiku-shuppan.co.jp/book/book/cate5/cate526/sho-641.html

 
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著者の笠谷和比古氏は、本書で「紙幅を割いて論述」したと述べているものの一つに、慶長8年(1603)に家康が制定した農村法令があると、あとがきで述べています。

家康の征夷大将軍任官に合わせて発布されたこの法令のうち、「地頭」の非分が甚だしい場合には、当該年の年貢さえ納入すれば、自由にその領地をはなれてもよいとする第2条は、御成敗式目第42条に由来すると笠谷氏は指摘しています。
これは、源頼朝を尊崇し、『吾妻鏡』を愛読していた家康が、新たな幕府を開くにあたって、鎌倉幕府以来の武家政権の正統な後継者として自己の経綸を明らかにしようとしたことを示していると、笠谷氏は述べています。

この条文は、農民統制の色彩が強い寛永20年(1643)の土民仕置覚にも引き継がれますが、笠谷氏の指摘によれば、その後は徳川吉宗治世に行われた『公事方御定書』の編纂まで忘れ去られてしまいます。
『公事方御定書』の第28条の検討過程で、寛永20年の法令が見出され、その規定がただし書として付け加えられたのです。
これにより、家康の制定した農村統治の原則・精神は、法の運用という形をもって、後々の世まで継承されました。

本書の中で家康が定めた農村統治の法令について述べた箇所は、家康政治の本質を示す問題として、また、幕府政治の長期にわたる農村政策上の問題として、読者に一読を勧めたいと、笠谷氏はあとがきで述べています。

◎笠谷和比古『徳川家康』(ミネルヴァ書房、2016年)。
http://www.minervashobo.co.jp/book/b252807.html

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本書で著者の斎藤英喜氏が取り上げるのは、「中世神話」スサノヲです。

斎藤氏によれば、中世において、古代神話=『記』『紀』の注釈の過程で「中世日本紀」と呼ばれるものが生まれました。
中世でいう「注釈」とは、「古典の本文をより正しく、深く理解する」といった現代のイメージとは違い、『記』『紀』の本文から離れ、さらに新しい「本文」=神話テキストを作り出す行為でした。

そして、「中世神話」とは、さらに注釈という枠組みからさえも独立して産みだされた、より自由に神話を語る物語のことを指します。

このような中世における創造的な知の営みは、真の古代神話を明らかにしようとする研究者たちにとっては、学問的な価値が低いものと見下されてきました。
しかし、1970年代になると、中世文学の研究者である伊藤正義氏によって「中世神話」を積極的に評価しようという動きが始まったと斎藤氏は分析します。

中世神話におけるスサノヲの姿には、古代神話にとらわれない様々なものがありますが、その中に中世において、スサノヲが出雲大社の主祭神であったというものがあります。
斎藤氏は、現在の出雲大社境内に建つ、毛利綱広によって寛文6年(1666)に寄進された銅鳥居に刻まれている、「素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」という一節は、スサノヲが出雲大社の主祭神であった中世の姿を伝えていると述べています。

斎藤氏によれば、出雲大社の主祭神として「大国主神」の名前が定着するのは、本居宣長『古事記伝』によって、『古事記』がスタンダードな「古代神話」と認識されるようになる江戸時代後期のことです。

それ以外にも中世神話のスサノヲは、地獄の閻魔王とされたり、その本地が地蔵菩薩とされるほか、京都の祇園社の祭神たる牛頭天王ともされるなど、様々な姿を現します。

しかし、明治元年(1868)、新政府は祇園社を八坂神社と改称し、祭神の牛頭天王を素戔嗚尊とするよう命じます。
これによりスサノヲは本来の古代神としての神格を取り戻したかにみえますが、斎藤氏はその「古代」とはあくまで近代の国家神道が作り出した「古代」にすぎず、スサノヲは多種多様な可能性をそぎ落とされてしまったと述べています。

◎斎藤英喜『荒ぶるスサノヲ、七変化』(吉川弘文館、2012年)。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b100576.html


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