歴検日本史修士が語る地名・地形・歴史

歴検日本史修士が地名・地形・歴史について気ままに語ります。 日本史に興味を持ったきっかけはNHK大河ドラマ「葵徳川三代」。 小学生の頃から歴史能力検定を受験し、2013年に歴検日本史修士の称号を賜りました。 大学では中世史を専攻しましたが、現在は学問の世界からは離れています。 地名や地形は歴史を読み解く重要な要素です。 現在住まいを置いている群馬県前橋市を中心に書いていこうと思います。

織田信長 (人物叢書)
池上 裕子
吉川弘文館
2012-12-10


織田信長といえば、現代で最も人気のある歴史上の人物といっても過言ではない人物です。

しかし、本書の著者である池上裕子氏は、信長に抵抗した人びとの子孫の中には今でも「信長許すまじ」と述べる人がいるという作家の五木寛之が述べた文章を引合いに出し、「平和が絶対的な価値である」から信長が民衆の支持を得たという意見に疑問を呈しています。

池上氏は、信長の戦争を敗者の視点からみると、彼らにとって信長の戦争には正義がなかったのだから戦わずして降伏する理由などなかったと述べています。
自分に逆らう者を許せない信長は、残虐な殺戮に走って鬱憤を散じましたが、歴史を読み解く我々はその行為を全国統一を目指した戦争として特別の価値評価に陥ってしまうと池上氏は指摘します。

また、本能寺の変がなければ全国平定が早くに成就したという予測にも池上氏は否定的です。
際限ない戦争は武士にも百姓にも不満を広げたであろうし、「信長許すまじ」という意識も収まってはいなかったからです。

最後に、池上氏は信長の発給文書に村や百姓支配に関わるものが少ないことを指摘しています。
戦争遂行には百姓らの夫役・陣夫役等が不可欠だった一方で、信長は村・百姓の負担の実情に思い致すことはなく、その年間数量を規定することもなかったのです。
このような点からも信長政権の脆さ・危うさを窺うことができます。

◎池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、2012年)
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b105563.html


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今回取り上げる『古代東国の石碑』では、日本の古代に東国と呼ばれた地域で建立された6基の石碑について述べられています。

そのうちの多胡碑は、和銅4年(711)の多胡郡設置について刻まれたもので、近隣の山上碑金井沢碑とともに「上野三碑」と呼ばれています。

多胡郡の設置については、『続日本紀』和銅4年3月辛亥条にも記事があります。
本書の著者の前沢氏は碑文と『続紀』の記事を比較し、『続紀』の建郡記事に見られる「○○郡を置く」という表現が碑文にないことから、碑文は公文書を直接書き写したものではない可能性を明らかにしています。

また、多胡碑の碑文には、『常陸国風土記』の行方郡設置記事の構成との共通点が見られることから、前沢氏は多胡碑を「石にきざまれた『風土記』」だと述べています。

多胡郡は山上碑のある場所を取り込んで設置され、後に金井沢碑が郡内に建立されました。
山上碑を建立した「長利」という人物が放光寺という寺の僧であったことに加え、地元の豪族による知識集団が存在し力を強めていたことが金井沢碑の碑文からわかります。
このことから前沢氏は、蝦夷政策の拠点とされた多胡郡地域では、仏教による人心の把握と慰撫が必要とされたと述べています。

◎前沢和之『古代東国の石碑』(山川出版社、2008年)。
https://www.yamakawa.co.jp/product/54684

 
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源氏長者は皇親賜姓氏族全体の長者

本書において重要なキーワードと言える「源氏長者」とは、嵯峨源氏、清和源氏、宇多源氏、村上源氏といった源氏全体の「氏長者」のことです。
氏長者は令制の氏上の系譜をひく氏の統率者で、『国史大辞典』によればその職能は、氏神の祭祀および氏社の管理、大学別曹の管理、氏爵の推挙を行うことなどです。

源氏が他の賜姓氏族と異なる点として、本書の著者である岡野友彦氏は、源氏は臣籍降下後も皇族としての性格を色濃く残していると指摘しています。
中には宇多天皇のように一度は源氏を名乗ったにもかかわらず親王に復して即位した例から、岡野氏は源氏とは「たまたま臣籍に身を置く皇族」だと述べています。

北畠親房が著した『職原抄』によれば、源氏の筆頭公卿(源氏長者)は大納言・中納言の時、淳和院別当奨学院別当を兼ね、大臣になると次席の源氏公卿に淳和院別当を譲るとされています。
淳和院は皇族の離宮で尼寺であり、奨学院は王氏全体の大学別曹であったことから、両院別当の地位と密接にかかわる源氏長者は、源氏のみならず皇親賜姓氏族全体の長者であったと主張します。

このことは、岡野氏が第二・第三の皇祖神と指摘する八幡宮と平野社を源氏長者が管理していたことからも裏付けられます。

源氏長者と日本国王


足利義満が明の建文帝から「日本国王」に封ぜられる以前、征夷大将軍たる武家政権の首長は外交権を掌握することができなかったと岡野氏は述べています。

しかし、冊封を受けた応永9年当時、義満は征夷大将軍の地位を息子の義持に譲っていました。
では、明から日本国王に封ぜられた義満の国内的な地位はどのようなものだったのでしょうか。

そこで岡野氏は、「日本国王」に封ぜられたすべての足利将軍が源氏長者についている点に着目しています。
岡野氏によれば、征夷大将軍の地位は単なる一軍事指揮官にすぎず、「日本国王」の地位を継承したのは源氏長者だったのです。

足利将軍についで征夷大将軍についた徳川家康は息子の秀忠に将軍職を譲りますが、これ以降も源氏長者の地位は手元に留保しました。
このことから岡野氏は、大御所・家康の権力の源は「単なる将軍の父」ではなく、源氏長者の地位にあったと述べます。

江戸幕府が崩壊する際、大政奉還と将軍辞退はそれぞれ別途に奏請され、別途に勅許されました。
岡野氏は、この「大政」なるものの本質が「日本国王」の地位であったと主張しています。

石清水八幡宮に現存するとされる源氏長者の宝器である安摩面の矢羽の封紙には、「慶応四年二月朔日・前内大臣源建通識」と記されており、岡野氏は徳川家から公家源氏の久我家に源氏長者の地位が返還された証拠として本書で取り上げています。

◎岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社、2003年)。
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784061496903

 
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