歴検日本史修士が語る地名・地形・歴史

歴検日本史修士が地名・地形・歴史について気ままに語ります。 日本史に興味を持ったきっかけはNHK大河ドラマ「葵徳川三代」。 小学生の頃から歴史能力検定を受験し、2013年に歴検日本史修士の称号を賜りました。 大学では中世史を専攻しましたが、現在は学問の世界からは離れています。 地名や地形は歴史を読み解く重要な要素です。 現在住まいを置いている群馬県前橋市を中心に書いていこうと思います。



本書で著者の斎藤英喜氏が取り上げるのは、「中世神話」スサノヲです。

斎藤氏によれば、中世において、古代神話=『記』『紀』の注釈の過程で「中世日本紀」と呼ばれるものが生まれました。
中世でいう「注釈」とは、「古典の本文をより正しく、深く理解する」といった現代のイメージとは違い、『記』『紀』の本文から離れ、さらに新しい「本文」=神話テキストを作り出す行為でした。

そして、「中世神話」とは、さらに注釈という枠組みからさえも独立して産みだされた、より自由に神話を語る物語のことを指します。

このような中世における創造的な知の営みは、真の古代神話を明らかにしようとする研究者たちにとっては、学問的な価値が低いものと見下されてきました。
しかし、1970年代になると、中世文学の研究者である伊藤正義氏によって「中世神話」を積極的に評価しようという動きが始まったと斎藤氏は分析します。

中世神話におけるスサノヲの姿には、古代神話にとらわれない様々なものがありますが、その中に中世において、スサノヲが出雲大社の主祭神であったというものがあります。
斎藤氏は、現在の出雲大社境内に建つ、毛利綱広によって寛文6年(1666)に寄進された銅鳥居に刻まれている、「素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり」という一節は、スサノヲが出雲大社の主祭神であった中世の姿を伝えていると述べています。

斎藤氏によれば、出雲大社の主祭神として「大国主神」の名前が定着するのは、本居宣長『古事記伝』によって、『古事記』がスタンダードな「古代神話」と認識されるようになる江戸時代後期のことです。

それ以外にも中世神話のスサノヲは、地獄の閻魔王とされたり、その本地が地蔵菩薩とされるほか、京都の祇園社の祭神たる牛頭天王ともされるなど、様々な姿を現します。

しかし、明治元年(1868)、新政府は祇園社を八坂神社と改称し、祭神の牛頭天王を素戔嗚尊とするよう命じます。
これによりスサノヲは本来の古代神としての神格を取り戻したかにみえますが、斎藤氏はその「古代」とはあくまで近代の国家神道が作り出した「古代」にすぎず、スサノヲは多種多様な可能性をそぎ落とされてしまったと述べています。

◎斎藤英喜『荒ぶるスサノヲ、七変化』(吉川弘文館、2012年)。
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b100576.html


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本書を手に取るまで、永井尚志という人物には、2004年の大河ドラマ「新選組!」佐藤B作さんが演じていた程度の記憶しかありませんでした。
ドラマの中でも、近藤勇や土方歳三をはじめとする主要人物の陰であまり目立つこともなく、「幕府の保守的な官僚」というイメージを持ってしまっていました。

しかし、本書で明らかにされた永井のイメージはそれとはまったく異なります。

文化13年(1816)、三河国奥殿藩主・松平乗尹の子として生まれた尚志は、25歳の時、旗本の永井尚徳の養子となります。
尚志は38歳で目付に異例の抜擢をされ、その後は主に幕府の対外交渉の場面で尽力します。

井伊直弼が大老として権力を握るなか、尚志は幕府の外国奉行に任命されます。
しかし、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立のために活動したことや、井伊の大老就任に際して反対の意を表したことなどから、免職のうえ、役高を含めた俸禄の召し上げという処分を受けます。

尚志が幕府が崩壊するまでの間に、この時を含めて4回処分を受けています。
本書の著者である高村直助氏は、これらの処分を、無能や怠慢、不正によるものではなく、「有能で果敢に真摯に、当面する困難な課題に取り組んだ結果、蒙った処分であった」と評しています。

幕府崩壊後は箱館政権に参加し敗北しますが、高村氏は、尚志は少なくとも2つの点で、日本近代の基礎づくりに欠かせない改革に貢献したと述べています。

そのうちの1点が、慶喜の大政奉還の意思表示に対して、幕臣のなかでほとんど唯一その実現に真剣に取り組み推進したのが尚志だったということです。
幕臣幹部のなかには相当数の積極的開国派がいた一方で、小栗忠順に代表されるように、彼らの大部分は幕権至上主義者でもありました。
そのなかで尚志は、雄藩との連携など、将軍の地位を相対化する政体を容認する、数少ない有司であったと高村氏は述べています。

◎高村直助『永井尚志』(ミネルヴァ書房、2015年)。
http://www.minervashobo.co.jp/book/b208215.html

 
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本書のタイトルにもなっている「古代の女性官僚」(女官)は、『国史大辞典』において「男官に対して女子官人を女官と呼ぶ。太政官庁の男官に対し、後宮十二司は小規模ながら女子職員から成る女司で、出仕の女子をすべて宮人(くにん・きゅうじん)と総称した。」と説明されています。

著者の伊集院葉子氏は、自己紹介などで「古代の女官について研究している」と述べると、隋唐帝国や朝鮮王朝の後宮女官や紫式部や清少納言といった女房と勘違いされることが多いといいます。

日本の古代女官は、律令によって規定された行政システムの一部だという点で、後宮という隔絶した空間のなかで皇帝の「家」のために奉仕した唐の女官とは性格が異なります。
そのため、日本の女官は恋をし、結婚をすることも出来ました
本書では、「女官の生活と結婚」という章が設けられており、その中では結婚後も女官としての出仕を続けることが珍しくなかったことが述べられています。

日本独自の女官制度が発達した背景について伊集院氏は、中国流の男性中心主義的な官僚機構を受容するだけでは我が国の行政システムの運用は不可能だと、当時の為政者が考えたからだと述べています。
それ以前の日本では、すでに官人機構の中に女性が身を置いていました。
そのため、原則では中国流に女性を排除するする一方で、実態では旧来の女性の役割を包摂する形で日本独自の女官制度が成立したのです。

◎伊集院葉子『古代の女性官僚』(吉川弘文館、2014年)。

 
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